世界的な建築家で「建築界のノーベル賞」と称されるプリツカー賞を受賞した伊藤豊雄さんがNHK番組【最後の講義】に出演されます。
伊藤豊雄さんは日本のみならず世界中の建築物の設計にも携わる、我が国を代表する建築家の一人ですね!
代表作は神奈川県の横浜駅にある風の塔や、建築設計事務所でアルバイトをしていた時に大阪万博の近代建造物にも携わったそうです。
伊藤豊雄さんのデザインした建築物には様々な素材と表現形式、美しい曲面が使われ、周囲の環境に溶け込むように自然の要素を取り込んでいるのが特徴ですね。
そんな日本だけでなく世界からも高く評価されている我が国の一級建築士、伊藤豊雄さんの両親は一体どんな人だったのか気になる方はご覧ください!
伊藤豊雄さんの両親は?
父・槇雄さんに抱かれている伊藤豊雄さん
引用:アーキテクト・エージェンシー
伊藤豊雄さんの父親は伊藤槇雄さんという方で京城(現大韓民国ソウル市)の商社に勤めていました。
伊藤豊雄さんは父親が京城にいた頃に生まれたので出生地は京城で、1歳の頃まで暮らしていたそうです。
伊藤槇雄さんはかなりの努力家で、勤めていた商社で登り詰め、裕福な生活ができていたのですが、1941年日米開戦が始まりました。
父・槇雄さんは勝ち目がないと見越し、槇雄さんの故郷である長野県に家族を送り返したそうです。
家族を送った後もしばらく京城に残っていた槇雄さんも終戦直前に長野に戻ってきましたが、戦争で働き口を失ってしまいました。
槇雄さんは故郷に戻り味噌の製造を始める
ですが、努力家である槇雄さんは味噌の製造業を興じ、戦後の貧しい時代でも、家族を支えてきましたが、その後伊藤豊雄さんが小学6年生の頃に亡くなりました。
伊藤豊雄さんは遅くに生まれた待望の男児だったため父・槇雄さんにとても可愛がってもらえたそうです。
伊藤豊雄さんは母親と上京していた!
そして伊藤豊雄さんの母親についてですが、情報が少なく名前を確認することができませんでした。
しかし、伊藤豊雄さんが中学3年生の頃に東京都立日比谷高等学校に進学するために母親と2人で上京したという情報がありました。
「東京で子育てをする」と決めたようです。その母と一緒に上京したのは、中学3年の6月でした。 引用:アーキテクスト・エージェンシー
いかがだったでしょうか?伊藤豊雄さんの父親は京城の商社に勤められていた人で、努力家で戦後の経済が不安定な時代にも関わらず、自ら味噌の製造業に興ずるとてもやり手の人でした。
味噌の製造業を始めようと思ったのも景気に左右されない商売は何か考えてたどり着いた結果だそうで、先を見据える力も携えている人でした。
伊藤豊雄さんの母親は名前は不明でしたが、伊藤豊雄さんが東京の高校に進学するために一緒に上京をしたそうです。
息子である豊雄さんのやりたいことを第一に考えるとてもやさしい母親ということが分かりました。
調べるまでは伊藤豊雄さんの家系は代々建築関係の仕事を携わってきたのかと思いましたが、日本ではなく京城で働いていたということも以外でしたし、戦後の景気が不安定な時に味噌の製造業を始めたということも今回知ることができました。
まとめ
- 伊藤豊雄さんの父親は伊藤槇雄さんで、京城(現大韓民国ソウル市)の商社に勤めていた。
- 戦後は父・槇雄さんの故郷、長野で味噌の製造業に興じた。
- 母親の名前は今回確認することができなかったが、伊藤豊雄さんが東京の高校に進学するために母親と一緒に上京していた。
伊藤豊雄のプロフィール
- 名前:伊藤豊雄(とよお)
- 生年月日:1941/6/01
- 出身地:京城府(現ソウル市)
- 国籍:日本
- 出身校:東京都立日比谷高等学校・東京大学工学部建築学部
- 職業:建築家
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